潮騒

――目の前には青い海 耳に響く二つの潮騒――

 懐かしい夢を見た。
 目の前に広がる光景は目新しいようで、ずっと昔から知っているようでもあった。空想にしては鮮明で、現実にしては不確か。それでも、いつかどこかで本当にあったことだというのは漠然とわかっていた。思い出として意識していなかっただけで、心のどこかには確かに残っていたのだろう。
 忘れていた記憶だった。それも遠い昔の。
 ふと思い立って、滅多なことでは開けない戸棚を開けてみる。
 もう過ぎ去った昔を閉じこめるように、亡き人の遺品をしまってある戸棚だ。いつでも故人を懐かしむことができるように、その中でも小さなものはすぐ手が届くところにしまってある。
 その中でも特に気に入っている古ぼけたオルゴールの蓋を開けると、ひっくり返してさかさに振った。子守歌のように耳になじんだ優しい音色と一緒にころり、と中からそれが落っこちた。
 取り立て美しくもない、何の変哲もないそれ。王妃という立場ならもっと似たような美しいものもとっておけただろうに。これまでだったら何故こんなものがここにあるのか首をひねって終わりにしていたものだった。今は、それが何だったのかわかる。思い出したのだ。
 もう海に還った人間の気持ちを理解しようとしても、それはどこまでいっても想像でしかない。だが、今はこれに込められた故人の心がなんとなく理解できるような気がした。
 手のひらに収まるサイズのそれを昔と同じように握りしめる。思い出の中よりもずいぶんちっぽけになったような気がしたが、肌に吸いつくようななめらかな触り心地は変わってはいなかった。

 彼はいつも忙しそうにしているから、捕まえるのには少し骨が折れる。誰かを遣いにたてて呼び寄せるより、自分から行動して相手を待ち伏せしていた方が手っとり早く、確実だという事は身をもって知っていた。周囲からはそんなにあくせく働かなくてもいいように思えるのに、彼は指示もしていない仕事を見つけて自主的に忙しくしているような節があるから、行動範囲がある程度かぶっていても、運が良ければ一日に何度も会えるがタイミングが合わないと十日ぐらい顔も会わせないこともある。そんな人間なのだ。
 その彼を一番確実に捕まえられるのは哨戒の帰りだ。近海の哨戒船は変わったことでもない限り大体同じ時間に出て同じ時間に帰ってくるから、船から下りる時を狙うのがいい。
 港を警護している兵に頼み込んで、入港出港の手伝いをしながら彼の乗った船を待っていると、まもなく目当ての船影が島へと近づいてきた。
 フレアが甲板の上に相手を見つけるとほとんど同時に、相手はフレアを見つけたらしい。会話をしていた相手の兵を手で制すると、彼は船が桟橋に着くとほぼ同時に速やかに陸に上がり、フレアの元へ来た。
「フレア、どうしたんだ?」
「ごめんなさい、邪魔してしまったかしら」
「いや、彼らへの話はいつでもできる」
 肩でそろえた淡い色の髪に、赤いハチマキ。その年にしては妙に落ち着いた雰囲気を持つ、直属の部下としてオベル王の元で働いているヒイロという少年はその青い瞳で無言の内に話の続きを促した。
 フレアは握りしめていた布袋に僅かに力を加えると、ヒイロの瞳をのぞき込む。
「少しあなたと話をしたかったの。時間はある?」
「今日しなければならないことはリノ王への報告だけだ。代わりのものをたてれば十分だろう」
「なら大丈夫ね」
 握りしめた手から力が抜ける。知らず知らず張りつめていた息をほっと吐き出すと、ヒイロが困ったような視線を向けているのに気がついた。
「だが、話があるならわざわざここに来なくとも」
「どうしても今日の内に捕まえたかったのよ。王宮で待ってても顔を出してくれないときの方が多いじゃない。それに、今日は王女としての用件じゃないから」
 いたずらっぽく笑うと、ヒイロは黙ったまま一つ頷いた。
「わかった。外出するのは誰かに言ってきたか?」
「いいえ。警備の目をくぐって抜け出してきたわ」
「またセツさんにお小言を食らうだろうに」
「いいのよ。セツは過保護なんだから」
 本人にそんなことを言ったらそれこそ口を酸っぱくして怒られそうだが、ここは王宮ではない。懸念を笑い飛ばすと、ヒイロもつられたように目を和ませた。
「確かに、いちいち従っていたら好きなことの半分もできないだろうな」
「半分どころじゃないわ。八割は軽く越えるわよ」
「王族も大変だ」
「まったくね。これまで上手くやってきたんだからあんなにうるさく言う必要はないと思うんだけど」
「怒られる内が華と言うが?」
「物事には程度があるわ」
 軽く肩をすくめると、ヒイロは愉快そうにわずかに口元をゆるめた。セツがこの場にいたらそれこそ不敬罪に問われそうな言動だが、フレアは気にしない。立場の違いのせいでかしこまられるより、素直な反応でぶつかってきてくれる方が新鮮で、こちらとしても気が楽だ。
 そもそもヒイロが親しく接してくれるようになったのは、フレアが最初にかしこまらないよう頼んだからだった。慣れていない頃は苦労していたようだが、最近は仕事中を除けばようやく自然に友人として扱ってくれるようになった。
 その地位や権力を全く考慮に入れず、本人をそのまま見てくれる相手は本当に貴重なものだということはフレアもずっと王女という立場に縛られてきたから知っている。その点ヒイロは得難い相手と言えた。
「なら、あまり人目に付かない場所に移動した方がいいんじゃないか。ここは会話には向かない」
 ヒイロの指摘に、フレアは改めて周りを見回した。
 帰ってきたばかりの兵士たちが船上と桟橋をあわただしく行ったり来たりしている。入港後の各所の作業が一段落着くまでしばらくはこのせわしげな雰囲気のままだろうということは、自身もよく哨戒船に乗り込んでいるフレアには容易に想像できた。
「そうね。なら、いいところがあるわ」
「いいところ?」
「とっておきの場所なの。みんなには内緒よ」
「ああ」
 唇に指を当てると、少年はこくりと頷いた。
 これから案内する場所は、誰にも明かしたことのない秘密の場所。誰の目にも付かないそこは、これから彼に話すようなことにはうってつけだ。

 正規の道から離れて、もう道とは言えないような草ぼうぼうの獣道をかきわけていく。後ろに続く少年が息も乱さずに着いてくるのを確認しつつ、歩き続けて額から汗が流れだした頃に、不意に行く手を遮っていた草が途切れ、視界が開けた。
 立ち止まったフレアの隣で、少し遅れて草藪を抜け出したヒイロが感嘆の声を上げた。
「すごいな、絶景だ」
 切り立った崖の向こうに空と水平線が広がる。二つの青のぶつかりを遮るものは何もなく、足の下からは岩をなでる波の轟きがはいのぼってくる。崖下の左手には白い渚が弧を描いており、透き通った碧い波が静かに打ち寄せていた。
「一人になりたいときにたまに使うのよ。いい場所でしょう」
「ああ、こんな場所があるなんてな」
「しかもばっちり休憩もできるのよ。ほら、座って」
 偶然だろうか、崖の先には涼むのにちょうどよさそうな立派な枝振りの木があり、その木陰には座ってくださいと言わんばかりの平らな岩があり、まさに景色鑑賞に至れり尽くせりというような様相を呈している。
 誘うように袖を引っ張ると、ヒイロは困ったようにフレアの手を止めた。
「ちょっと待っててくれないか。すぐ戻ってくる」
 そのままくるりと元来た道を戻ると、草の中に姿を消す。
 しばらくして戻ってきたヒイロは水筒と紙袋をその腕に抱えていた。
「昼食がまだなんだ。食べながらでいいか?」
「ええ、もちろん。でも、だったら来る途中に言ってくれればよかったのに」
「僕もそう思ったが、ここに来るまで昼食のことを失念してたんだ」
 紙袋から出てきたのは二つのコップとたくさんの饅頭。手際よく取り出すと、ヒイロは饅頭を空になった紙袋の上に積んで、コップに水を注ぐ。フレアが手伝いましょうかと言う前に二人分の準備を整えると、いただきますと律儀に言ってもそもそと饅頭を食べ始めた。
「思えば、あなたと二人でこうしてご飯を食べたりするのって初めてね」
「ああ、意外だな・・・・・・フレアもどうだ?」
「じゃあ、一つだけ」
 手に取ると、饅頭はまだ暖かかった。
 二人で饅頭を食べて、水を飲み干す。沈黙を、足下からの波の音が埋めた。
 じっと座ったまま空間の共有。そんな状態がしばし続いたが、思い出したようにヒイロが訊く。
「それで、話とは?」
「そうだったわね」
 これまで黙ってしまっていたのは、まだ本当にヒイロにこの話をすべきか迷っていたからかもしれない。ここまで来てしまっても、この話を切り出すのには少し勇気がいる。
 フレアは一つ深呼吸をして、どこから話すべきか手順ももう一度おさらいした。新たにコップに注いだ水を手の中で遊ばせながら、世間話でも始めるようにつとめてさりげなく口を開く。
「少し、昔話を聞いてくれる?」
 少年は無駄な言葉を挟まず、頷く。了承を何よりも雄弁に語る行為だ。
 フレアは視線を砂浜にぼんやりと投げかけた。白と青の境界をなぞりながら、ああ、今日は砂浜に降りるのにはうってつけだろうと考える。
 あの日も、今日と同じような天気のいい日だった。
「ずっと昔、まだ私が小さな子供だったときの思い出を、今日夢に見て唐突に思い出したの。まだ母様と弟が生きていた頃だったわーー」

 何時のことだったか、正確には覚えていない。晴れた、波の穏やかな日だった。
 母に手を引かれ、どこだかは覚えていないが美しい砂浜に遊びに行った。その日までずっとフレアがせがんでいた「砂浜に遊びに行きたい」という願いを母が唐突に叶えてくれたのだ。そのとき何故かこのような機会には必ず参加したがる父はいなかった。手が放せない用があったのかもしれない。ともかくそのときは、護衛は連れていたが実質母と弟、そしてフレアで親子水入らずだった。
 わくわくした気持ちがおさえられなくて、フレアは砂浜に着いたとたん波間に走りよっていった。母に抱き上げられていた弟も地面に降ろされるや否やフレアの後をちょこちょこと追ってきて、一緒に遊んでいた。
 遊び疲れた後、フレアはすぐに母の元に戻ったが、弟は砂の中に興味深いものでもあるのかじっとしゃがみ込んで何かを見ていた。
 何が楽しいのかしら、と呟いたらきっとあの子にはおもしろいものがたくさん埋まっているんでしょうと母は笑った。
 そのとき母の手が汗に塗れて額に張り付いた前髪をかき分ける。偶然だが、手の甲を覆っている布がその弾みにずれてしまって、一瞬手の甲に黒い痣が見えた。
 反射的に目をそらすと、どうしたの、と優しく訊かれた。
――だって・・・・・・怖いんだもの。
 一目見た瞬間から、どうしても不吉な印象が消えなかった。母の手に焼き付いているそれは今まで見たどんな紋章にも似ておらず、姿を見る度に幼いフレアの胸の内を理由もなくかき乱す。
 フレアの反応で、彼女には何を指していたか理解するには十分だったのだろう。母の顔はこれまでの明るい態度が嘘のようにさっと曇った。フレアはすぐに言葉を打ち消さなければと思ったが、感じていることは本当だからどうしようもなくて、じっと俯いたままでいた。
 気まずい沈黙が広がる。だが、それを打ち破るようにさっきまで砂浜をじっと見ていた弟が今にも転びそうにとてとてと走ってきた。危なっかしい足取りのまま母の腕に転がり込むと、にこにこと笑っている。
――いいものは見つかった?
 そう母が訊くと、弟はこくりと頷いた。
 そして母の左手を恐れる様子もなく引っ張ると、自分の左の手と並べた。その小さな手のひらには何の変哲もない巻き貝が乗っている。
――おんなじ。
 一瞬、何を言われたかわからなかった。きょとんと二つ、母の手の甲と弟の手のひらを見比べて、ようやく意味を理解した。
 平然と紋章と巻き貝を同列に並べ、全く邪気のない純粋そのものの笑顔で、弟はにこ、と笑ったのだ、と。

「今考えると、我が弟ながら大胆なことするなって感心したいような呆れたいような気分になるんだけど」
「・・・・・・・・・・・・」
 その沈黙には先ほどは気配もなかった戸惑いや困惑、思案が感じられるようで、フレアはこの話を彼にしようと思った自分を一瞬後悔した。
 やっぱり困らせてしまっただろうか。だが、誰かに話さずにはいられなかった。この思い出を共有する誰かがほしかった。
 引き返すきっかけは何度もあった。けれど、話すことを選んだのは自分。
「ごめんなさいね、いきなりこんな話をして」
「いや、構わない・・・・・・けれど」
 どうして、と瞳が語りかけてくる。ふわりと微笑を浮かべて答えた。
「特に深い意味はないの。せっかく昔のことを思い出したのに、誰かに話さないと忘れてしまいそうだったから。かといってその場にいない父さんに話すのも何だし」
「・・・・・・・・・・・・」
 納得してくれただろうか。沈黙の中にはまだ迷うようなヒイロの感情の揺らめきが残っている気がする。
「この話には続きがあるの。あまりさっきの話の内容とは関係ないんだけど、せっかくだから聞いてくれる?」
 そう訊くと、ヒイロはおもむろに頷いた。承諾の印だった。
 フレアも頷き返すと、もう一度口を開く。
「さっき、弟が巻き貝を持ってきたって言っていたでしょう? それを使って母様が教えてくれたことがあるの」

 弟が小さい手に握りしめていた巻き貝を受け取ると、母は何故だか泣き顔のような笑顔を見せた。
 だが、どうしたのと声をかけるとすぐにそんな笑顔は引っ込めて母は普段の優しい笑顔を見せた。そして手の中の愛おしげになでながら、小さな声でそっと教えてくれた。
――知っている? 貝の内側にはもう一つ海があるのよ。
 ほんとう、と訊くと手の中にある貝殻で片耳をふさいで、よく耳を澄ましてごらんと囁かれた。
 耳を傾けると、小さな貝から本物そっくりの潮騒が聞こえてくる。海から聞こえてくる波の音と重なり、小さな潮騒は唱和するように耳の奥で響いていた。

「ここにその貝殻があるわ。ずっと大切にしまってあったみたい」
 手のひら大の布袋から中身を取り出す。貝の巻きにあわせて褐色の色がのった、いたって平凡な貝殻がころりと手のひらの上で転がった。
「これが?」
「そう。耳に当てるとちゃんと潮騒が聞こえるわよ」
 貝殻ごと、手のひらをヒイロの耳にかぶせる。ヒイロは一瞬びくりとを身体を揺らしたが、すぐにじっと貝殻に耳を傾けた。
「ほら、聞こえるでしょう?」
「ああ」
「それ、もしよかったら貰ってくれないかしら」
 何気なく言うと、ヒイロは驚いたように目を見開いた。言葉を選ぶように視線を境にしてその瞳には訝りの色が混ざる。
「大切なものなのだろう?」
「ええ、でもあなたに譲りたいの」
「・・・・・・僕のことを弟と重ねているというのなら、僕はこれを受け取ることはできない」
「そうじゃない」
 この話を彼に告げようと思ったのは、どうしてだっただろう。
 彼が行方不明になった弟その人だろうということは、半ば確信している。ヒイロ自身もそれは察している気配がある。
 だが、ヒイロはその事実を断固として認めず素知らぬ振りをしているから、このような形で母の思い出を少しでも覚えておいて貰うために。それもあったかもしれない。
 けれど、それだけではない。それだけならば、渡す品物はこの貝殻でなくてもいいのだ。
 フレアがヒイロに贈りたかったのは、この貝殻だった。
「あなたに持っていてほしいの。なんとなく、だけどね」
 もしかしたら弟かもしれない少年。母と同じ、罰の紋章の継承者。そして、大切な友人。
 普通の人間の運命と異なる道を定められた彼に大切にして欲しいものが、この小さな貝殻にはきっと詰まっている。だから、母はこれをずっと大切にしまいこんできたのだろう。
 少なくとも、フレアはそう感じたのだ。だから。
 真っ向からヒイロの瞳を見据える。夢の中の海から切り取ってきたような、鮮やかな青がフレアを見つめ返した。
 感情の読みとれない視線の交差の後、ヒイロは神妙な顔でこくりと頷いた。
「わかった、受け取ろう」
 かたくなな態度が急に軟化した。ふと表情から力が抜け、茫洋とした面もちのままヒイロはフレアの覚えている限りいつも手袋をつけたままの左手で貝殻を握りしめる。
 もしかしたらヒイロは、先ほどの視線の交錯でフレアが直接言葉にしなかった部分を読みとってくれたのかもしれない。目は口よりも確かに物を言うと昔から言うから。
 感謝の言葉は自然と口をついて出た。
「ありがとう」
「感謝するのは普通こちらだろう。貰ったのは僕だ」
「それでもお礼を言いたいのよ」
 わがままの独りよがりかもしれない願いを聞いてくれたことに。
 ここにいて、話を聞いてくれることに。
「なら、その言葉もありがたく受け取ることにする」
「ついでにこれも貰って。保管にちょうどいいでしょうから」
 貝殻を元々収まっていた布袋の中に滑り込ませて、袋についている紐をヒイロの首にかけた。
「よく似合ってる」
 装飾が一つ足された自分の格好をさりげなく検分しているヒイロに微笑を浮かべると、フレアは岩から立ち上がった。
「もうちょっとゆっくりしていたいけど、そろそろ私は戻らなくちゃ。見つからないって大騒ぎされても困るものね」
「送っていく」
「大丈夫よ、ここは私の庭のようなものだから。ヒイロはもう少し休んでいって。いっつも忙しそうにしてるんだから」
 腰を浮かせたヒイロを座りなおさせると、フレアは崖の先に広がる海とヒイロに背を向けかけた。その拍子に、ふとすでに空になった饅頭の紙袋に目が止まる。
「そういえば、そのお饅頭と水は・・・・・・?」
 見たところ、どこかの店でヒイロが自腹で買ってきたように思える。何も言わずに食べるだけ食べて帰るのは礼儀に反するだろう。だが、ヒイロは返答の代わりに首にかけた袋を軽く持ち上げた。
「大切なものなんだろう。ささやかすぎるかもしれないが、お礼だ」
 彼にとっては珍しく、茶目っ気たっぷりに笑う。その笑いにつられたように、フレアの顔にも自然に笑顔が浮かんだ。
「わかったわ。ごちそうさま」

 一人木陰に残されて、改めて巻き貝を眺めた。白い殻に、意図的に茶色の絵の具を塗ったような色合い。形は整っているが、別段きれいなわけでもない、ありふれた貝殻だ。
――貝の内側にはもう一つ海があるのよ。
 ふと、誰かがそう言っていたのを思い出した。先ほどのフレアの声ではなかった。もっと幼い頃から知っている。
 それを教えてくれた、あの優しい声音は誰のもの。

 ぼやけた記憶の中では手のひらに包みきれないぐらいの大きさだった貝は、今は簡単にすっぽり包み込めてしまうほど小さく。だが、そのなめらかな手触りは変わっていない。
 そっと耳に当てると、どこか懐かしいような遠い潮騒の音が聞こえた。