門出

 夜に溶け込むように、闇に目を凝らして進む。  月明かりだけが細く差し込む木々の間を根に足を取られないように慎重に歩み、時折空を見上げて方位を確認する。
 北の空で輝くひときわ明るい星と自分の進路の交わる角度は出発時と比べると微妙に狂っていたが、黙殺して歩を進めた。
 確たる目的地はないので、多少の誤差は心配しなくとも構わない。
 ただ、進まなければ。けして、元の方向に戻ることだけはあってはならない。

 一つ息をついて、後ろを振り返る。
 満天の星空が、赤く灼けていた。
 惨禍と悲劇を示す、禍々しい色ではなく、あれは篝火。
 その方向では、争いの集結を告げる祝宴が行われている最中のはずだ。
 惜しげもなく焚かれる、平和を祝う火。戦時に幾度となく燃え上がった悲しみの炎とは打って変わって、その炎は歓喜に踊っていた。

 先の争いにはひょんな縁で参加していた。
 そのため宴に参加する権利は持っていたのだが、大人数の中で浮かれ騒ぐというのはどうも性には合わない。
 人の命が己が右手に喰らわれていくのが恐ろしくて、長らく人付き合いを拒絶していたからか。人と関わるのは、いつの間にか苦手になっていた。
 だから、煩わしさを避けるために、逃げるように背を向けた。
 それに、あの集まりから離脱する潮時でもあると思った。
 宿主の大切なものほど美味と感じ、欲望のまま喰らい尽くすもう一つの意識。
 それはいつ胎動し、ようやく訪れた平和を完膚なきまでに破壊するか知れなかったから。

 宴に参加すると見せかけて船から下り、物陰にまぎれて去った。
 光が強い場所には、当然それと同等に影も生まれる。真昼のような宴会場から離れれば、随分とあっさり闇が口を開けていた。
 おせっかい揃いの船員達に引き止められるかと予想していたのに、拍子抜けだった。
 だが、それも道理だろう。あの場にいる連中は、今日限りは手にした勝利に酔っているだろうから。
 自分自身で手一杯で、他人に気を配る余裕などはない。

 一つの結末を彩る、宴の最中なのだ。
 喪失も、悲しみも、今だけは全て忘れて。ただ、平和がやってきたことの幸せを祝うため、食って、飲んで、歌い騒ぐ。
 かけがえのないものは手に入れたが、それを得る為の代償は大きすぎた。せめて失ったものへの手向けとするために、今だけは。

 陽気な音楽が流れる真昼のような明るさから、暗闇へ。一人で一歩を踏み出した。
 引き止める者は皆無。見送る者も。たった一人で、あの海のゆりかごへと無言で別れを告げる。
 とどまることは、許されない。争いには終焉が。罰には許しが。
 秩序を取り戻したかの地には、波乱を巻き起こす強大な力は害悪にしかならない。
 進むこと。命の続く限り、進み続けること。それが、自分に課せられた運命。人知を超える計り知れない力と引き換えの、呪い。
 この地に破滅を導かない為には、立ち上がって、歩き出すしかないのだ。

 旅の始まりは、いつも一人だ。道連れも、見送りもなく。広がった大地には、のろのろと地平線を目指すちっぽけな自分ひとり。
 闇にまぎれてしか、生きられない。
 常に他人の死と隣り合わせで生き、その魂を掠め取る。自分の命すらも、力の助けを受けなければ満足に守れない。
 紋章に突き動かされるように生きてきて、それに縋る以外に生きる術もない。非力で、どうしようもく無様な、死神。
 旅立ちの瞬間は嫌いだった。何かに操られるように、殺戮の只中に放り込まれる己を知覚してしまうから。
その中に存在してさえも、絶対的な守護によって果てることの出来ない自分に気づいてしまうから。
 前に進む為。踏み出す一歩。足が重くて、踏み出せなくて。

 忍び寄ってきた霧に惑わされたのは、あまりにも疲れ果てていたからかもしれない。
 甘い囁きが水が沁み込むように心地よく浸透して、いつの間にか言われるがままに右手の紋章を手渡していた。
 理不尽にやって来た重すぎる呪いに、耐え切れず。

 けれど、何故だろう。
 停滞の幻想は、一陣の風によって吹き払われて。
 夢を見続けることも出来た筈なのに、今新たに旅立ちの一歩を踏み出そうとしている。


――友達にならないか。


 目を閉じて浮かぶ顔は、闇に渦巻く世界に現れた救世主。
 気が狂いそうな宿命を背負い、甘言に惑わされてやってきたのだと思ったのに、そこには絶望の代わりに信念を湛え続けていた蒼き瞳があった。
 世の中にはこんな奴もいるのか。そう、思って。逃げていた自分が愚かに見えた。
 そして、ほんの少しだけだけれど――世の中だって、捨てたもんじゃないと思ったのだ。

 逃げ続けるのではなく、受け入れること。容易いように見えるが、それはとても難しく。
 だが、霧を打ち破った風はそれを体現していた。
 僅かばかりの余命を知りながら、大切な者へ不幸を振りまく可能性を知りながら、懸命に生きて。
 何かに追われるようではなく、何かへと進むように、生きていて。
 灰色の海の真ん中で、宿した力の咆哮に命を喰らい尽くされても、それで満足と言わんばかりに笑って見せた。

 仲間を救うこと。その笑顔を守ること。それが彼の生きる意義だったのかもしれない。
 紋章に踊らされた人生。その中で、彼はかけがえのない、唯一の結論を見つけ出したのだ。
 一般的な幸せとは、かけ離れている。だが、そのときの彼はとても幸福な者のように思えた。
 進むこと。それによって、得ることが出来るものがあると知った。

 彼が見つけた結論が、眩しくて。いつか自分もそれに準ずるものをと、その願いが足を突き動かす。



 東の空が白み始めていた。そろそろ、夜が明ける。
 後ろを振り返るのをやめて、前を向く。太陽のやってくる方向へ、体を向ける。

 150年ぶりの、仕切りなおしだった。
 これからは、呪われた運命を嘆き、被害者ぶった顔をしていることは出来ない。選択権は持っていた。
 この道に進んだのは自分の意思だった。

 生きよう。喩え紋章に翻弄されるだけの傀儡としての意味しか持たなくとも。それが無駄ではないと、あの出会いが教えてくれた。
 進まなければ、自分の足で。自分の意思で。ちょっとやそっとの時間でうまくいくようになるとは思っちゃいない。
 けれど、立ち止まるよりはましだ。

 すう、と息を吸い、吐き出す。
 閉じた瞼の裏の闇に、網膜に焼きついた赤が浮かぶ。揺らぎ、変化を続ける、まるで命のような、炎。

 初めて右手のそれを受け取ったときも、炎が空を灼いていた。
 世界中を焼き尽くそうとしているかのように、赤く、紅く。
 だが、あの時の厄災の象徴ともいえる暴力的な炎と比べ、この闇を照らす炎はなんとあたたかで、優しいのだろう。

 ふ、と泣きそうに唇をほころばせて、テッドは新しい朝へと一歩足を踏み出した。