いつかその時が来たら

 フレアが珍しく「何もしていない」ヒイロを見つけたのは王宮から伸びる、岸壁に沿って続く道の途中だった。哨戒の帰り道、王宮の庭でなんとなく周囲を見回していると、道ばたでなびく色素の薄い砂色の髪をおさえながらぼんやりとしている彼の姿を見かけたのだ。かつては道の先に続く先にある洞窟が船隠しとして機能しており、そのために一部の人間には頻繁に使われていたこの道だが、現在その洞窟は使われていないため彼がそちらにいる理由は思いつかない。不思議に思ったフレアは、このあと差し迫った用事もなかったので佇んでいるヒイロに近づいて声をかけた。
「ヒイロ、何をしているの?」
「フレア」
 大して距離もないし意識して気配を消した覚えもないのに、ヒイロは驚いたように振り向いた。フレアと目があって、海色の瞳が複雑な色に揺れる。
「海を見ていた」
 簡潔に答えると、ヒイロはまた海へと向き直った。いつにもまして素っ気ない対応だが、どうしても違和感を拭えない。放っておけない、と思ったフレアは、背を向けたままの少年に訊いた。
「そうなの。私もここにいていい?」
 返事はないが、否定しないことを見るとこれは肯定の沈黙なのだろう。本当に嫌なことがあるとき、少年はきっぱりと拒絶の言葉を口に乗せる。
 ここにいると決めたフレアだが、何もすることはないので少年に倣って黙って海を見つめた。海は穏やかだった。鳥たちが鳴きかい、白波が足下に押し寄せて飛沫を散らす。ごく普通の晴れた日の海の光景だった。
「何か、あったんじゃない?」
 どうも、今日の少年の様子は普通ではなかった。ふと当て推量で尋ねたが、少年は何も言わず、ざざ、と波の音が耳をさらう。
「キリルが旅だったんだ」
 波の音に紛れるようなさりげなさで、ぽつりと呟くような声が聞こえた。フレアは水平線から視線をはっと少年へと引き戻した。
「たぶん、戻らないつもりだろう。さっき僕のところには挨拶に来た」
 海原からやってくる風が、少年が額に巻いた赤い布をひらめかせる。彼はフレアの斜め前で、友人が旅立ったであろう海原をじっと見つめていたからその表情はわからなかった。
「戻らないってことは、まさか独りで?」
「僕が見た限りは」
「でも、おつきの人たちがいるでしょう。あの二人はどうしたの?」
「知らせないで出てきたみたいだ。確かめてはいないが、僕の知ってるキリルなら確実にそうする」
 ヒイロの言葉を、フレアは信じられないような思いで聞いていた。
 いつもいつも人の間で、ふわりと穏やかな笑みを浮かべて佇んでいた少年の姿を思い出す。フレアの知っている彼はどこまでも優しく、ちょっとお人好しにすぎるぐらいに人の心を信じる少年だった。
「でも、どうして」
「気持ちは分かるんだ」
 フレアの言葉を遮るような強い口調で、ヒイロが言う。フレアにはそれが、キリルを責めないでほしいというように聞こえた。
 はっと息を呑んで口をつぐむと、ややあってヒイロは掠れた声で沈黙を破った。
「怖かった・・・・・・いや、違うな。ともかく、キリルはずっとはそこにいられなかったのだと思う」
「どういうこと?」
「・・・・・・フレアにはわかりにくいかもしれないな。それに、これは単なる僕の推測だ」
「それでもいいわ、聞かせて」
 一旦明らかに会話を切り上げようとしたヒイロは軽く息をはくと、脳内に広がる自分の思考をたどろうとしているかのように瞑目する。
「近いことだけを見ていられるならいい。けれど、何十年、何百年・・・・・・時間をそんな単位で見てしまったら、どうしても耐えられなくなる。だから、じゃないだろうか」
 フレアは自分の生きる時間をそこまで大きな枠組みで見たことはない。人間の寿命は底まで長くはないからだ。だが、キリルにとっては違うのだと聞いた。
 年をとらない、人間とは違う生き物。彼はかつてヒイロの前で自分をそう呼んだそうだ。単なる事実として述べたのか、自嘲気味に言ったのか、それはあくまでそのときの出来事をヒイロからの伝聞でしか聞いたことのないフレアは知らない。
 ただ、わかることはある。多分彼は、きっと普通の人間よりも長い時間を過ごす。そして、普通の人と同じ時間が刻めないものは、一緒に暮らしていくのは難しいということ。
 きっと、それはどうしようもないこと。けれど、その決定的な違いがもどかしくて呟いた。
「・・・・・・馬鹿ね、キリルは。みんな、そんなことわかっていて一緒にいるのに」
「ありがとう」
 本人の代わりに、ヒイロが礼を言った。その事実に、フレアの胸がドクリと跳ねる。
 キリルと同じ条件に当てはまるのは、彼も同じだ。
「いつかはヒイロも行ってしまうの?」
 今日旅だった彼のように、一人で長い長い時を過ごすために。
 ぎゅっと強く拳を握りしめ、フレアは彼の瞳をじっと見る。その言葉の中に嘘があったら見抜くつもりで。だが、フレアの受け止めたヒイロの瞳はとても澄んだ色をたたえていた。
「ずっと同じではいられない」
 ぽつりと発せられた言葉は、すべての答えを物語っていた。 
「同じことなんだ、それだけは。僕たちも、君たちも」
 付け加えたヒイロは、すべてを達観しきったような顔で、だろう、と同意を求めた。直視することができず、フレアはうつむいた。
 世の中にはどうしようもならないことがある。そう、今までも何度も何度も痛感してきた。彼や、彼の友人と自分たちの差違も、そういう問題。だが、わかっていてもそのままにしておけないことだってあるのだ。その気持ちが、ただの自己満足につながるものであるとしても。
 だから、フレアは首肯する代わりに問いかけた。
「何か私にできることはある?」
「・・・・・・キリルの旅の無事を祈ってくれると、僕も嬉しい」
 やはり彼は、自分のことよりも何よりも、他人のことを願うのだ。予め予想はしていたとはいえ、徹底した彼の態度はちくりと胸を刺す。
 だが、それがヒイロという人間なのだ。たくさんの人に信を寄せられ、かつてはたくさんの人につき従った、彼。どんなに歯がゆくとも、本人の望み以上にできることはない。
「そんなの言われるまでもないわ。私だってキリルの仲間よ。お別れを言えなかったのが残念だけれど」
「そうだったな。悪かった」
 そう言うとヒイロはほんの少し、本当に嬉しそうに笑った。
 昼下がりの海は、太陽の光を受けてまるでこちらへと光の道を投げかけているようだ。少年はそれきり口を閉ざしたまま水平線にじっと視線を向けている。まるで、その先に友の姿が見えているのかもしれないと思えるほどに。
 彼は何を考えているのだろう。深い海の色の瞳は、横からのぞき込んでも底を見せず、凪いだようにそこにある。一人にしておいた方がいいのかもしれないとは思ったが、もし彼が本当に一人でいるのを望んでいるのなら、はっきりそう言うはずだ。フレアは、少年の立っているところから半歩下がったところ、少し離れているけれど、手を伸ばしたら届くところで彼とその先に広がる海を目の奥に焼き付けた。

 今日のことは、いつかまた思い出す日が来るのだろう。そう、心のどこかで確信があった。
 そしてそのときは、きっと。