雨の降る夜

「あなたはもし僕が死んだら泣いてくれますか?」
 その問いを発した後の静寂を、石畳を雨が叩く音が埋める。どこからか吹き込んだ隙間風がこのままでは本を読むのに暗いからと夜でもないのに灯した燭台の炎を揺らし、壁に映し出された二人分の影がゆらゆらと形を変えた。
 机の差し向かいで本を読んでいた少年は膝に乗せた分厚い本から目を上げると、はらりと白い額にかかった一筋の黒い前髪を耳にかけた。
「いきなりどうしたの?」
「心理テストみたいなものです。仮定の話ですよ」
「なんだ、自殺でもしようとしてるのかと思ったじゃないか」
「そんなことありませんよ」
 あなたが泣いてくれるのなら今すぐ死んでもいいですよ、という本音は腹の中に収めたままで、笑ってみせた。この目の前の少年が求めるような、無邪気を装った笑みで。
「で、実際どうなんです?」
「どうだろうね。その時になってみないとわからないと思うけど」
「想像してみてくださいよ」
 欲しい玩具のある子供のように駄々をこねて、答えをねだる。彼の口からでる答えはきっと自分の意志には沿わないだろうということを知りながら。
「・・・・・・そうだね、泣かないんじゃないかな」
「そう、ですか」
「いいや、違うな。泣けない、だ」
 きっと彼ならばそう言うだろうと、問いかけてみようと思いついたときからわかっていた。ならば、訊かなければいいものを。けれど、最初からはずれしか入っていない籤に万が一の当たりを夢見るように、もしかしたら違う言葉を言ってくれるのではないかと期待してしまって、傷ついて。勝手な言い分だというのも、わかっているけれど。
「勿論、君が死んだら僕はとても悲しいと思う。これは本当。けど、涙は出ないと思うんだ。泣き方を忘れてしまったんだよ、ずっと前に」
 嘘つき、と責めたくなる気持ちをぐっとこらえた。泣き方を忘れたんじゃなく、僕に対しては泣けないんでしょう? あの人の涙は、本当の本当に大切な人にだけそっと注がれる。何やかんや言って、結局は僕はその範疇に入っていないだけの話なのだ。
 こんなに長い間一緒にいるのに、ずっと側にいるのに、彼の愛するあの人たちと自分の間にはこんなにも明確な境界線が引かれている。
 少年はいったん本をぱたんと閉じて、薄い笑みを浮かべる。
「不満そうだね」
「いいえ、別に」
 そんなことを言うくらいならば、嘘でもいいから泣くと言ってくれればいいのに。けれど、この人は奇妙に素直だからこういう気持ちには正直であろうとするのだ。そのほうが、他人に誠実になると信じている。その態度が相手に――特に僕にとって――どんなに残酷な態度かも知らずに。
「なら、逆に訊くけど、僕が死んだら君は泣く?」
「・・・・・・・・・・・・・」
 それは、最悪の仮定だ。考えたくもない、この世でもっとも恐ろしい仮定。だが、最悪だからこそ言われた瞬間自分はどうするかを考えずにはいられなかった。そして、答えが出てしまったならば正直に吐き出す以外に僕に選択肢は残っていない。答えを待つ少年の透き通った黒耀の瞳を見つめていると、沈黙を守るのが耐えがたいような気分につき動かされるのだ。
 ゆるゆると吐息を吐き出し、渋々白状した。
「・・・・・・泣けません」
「ほら、ね」
 聞き分けのない子供をいい諭すように、少年は小さく首を傾けた。
 所詮、そんな関係なんだよ。そう間接的に言われた気がして、唇を噛みしめた。口の中に流れ込む血液の味が、今は無性に苦い。
 返す言葉もなくうつむいていると、僕が納得したと思ったのだろう。少年が満足そうに笑うのが感じられた。
 だが、違う。違う。あふれ出しそうになる感情の渦を何とか押し込める。この人がもし、世界から消えたとすれば。この手の届かないところにいってしまうとしたら、悲しくないはずがないのだ。
 確かに、姉の死と親友の死を乗り越えて、一度は自分の悲しみは枯れ果てたと思った。一生に涙を流す量が決まっているのならば、もう二度と泣くことはないだろうとも思った。けれど、違う。泣かないのはそれが理由じゃない。
 きっと、泣けないだろうと思うのだ。自分でもそう言ったけれど。もしこの人がいなくなったら、多分涙よりも何よりも先に絶望がやってくる。どこまでも打ちのめされて、きっともう立ち上がることさえできないような。大地が割れてしまうような、そんな圧倒的な絶望感だ。
 もし、もしもだが――そんな恐ろしいことが起こってしまったら、僕は涙を忘れるだろう。そして悲しむよりも嘆くよりも慟哭するよりも先に、壊れる。そんな予感があった。
 それに、きっとこの少年は湿っぽいのは嫌とか何とか言って、誰かが自分の為に泣くのを好まないに違いない。だから、泣かないのではなく、泣けないのだ。
 そう、言いたい気持ちは山々だ。すべてを洗いざらい吐き出してしまえれば、どんなに楽だろう。この思いをすべて言葉にしてぶつけたら、あなたは僕の気持ちに気づいてくれるだろうか。
 だが、いくら決してそうはできないことを知っている。思いを告げたら途端にこのいびつな関係も断ち切られて、終わりになってしまうのだ。持ち主が好意を持つ者の魂が奪われる呪い。彼は、自身が持つそれを忌避しているから。相手が好意を持っていれば、自分も好意を持ってしまう可能性もある。その前に、相手を絶対に遠ざけようとするはずだ。僕が命よりもあなたの好意を選びたいと言っても。
 だから、僕はその誤解を解かない。誤解されたままでも、不自然な関係でも、ここにいられるのなら。
 俯いている間に、少年はまた本を読みだしたようだった。時折、雨の音に紛れてページを繰る音がする。揺れる影にぼんやりと目をやっていると、ひときわ大きく炎が揺れて、音を立てて消えた。
 薄暗がりに沈んだ室内を、少年は本を閉じて見回した。
「消えてしまったね」
「また、つけますか」
「いいよ。たまにはこんなのもいいだろう」
 窓から差し込むかすかな光に浮き上がった少年の横顔はさらに物憂げで、幻のように消えてしまいそうな儚さがあった。その黒々とした瞳は窓の外を眺めているが、戸外の風景を見ているわけではないのだろう。雨の日には嫌な思い出があると、前に言っていたのを聞いたことがある。
 机を挟んだ距離は近いようで遠い。手を伸ばしても、ぎりぎり届かない距離だ。机の縁に無造作にかけられた、擦り切れた革手袋に包まれたあの手にそっと触れてみたいと思っても、間にある机が邪魔になる。
 今あなたが考えていることも、この僕とあなたの距離みたいに僕からは遠く隔たっているのでしょうね、と内心で毒を吐いた。今僕が姿を消しても、少年は彼らを思い出すように僕を追憶はしないだろう。
 それが彼なりの優しさだとしても、嫌だった。命を落としてもいい。せめて彼の心の中に住んでいられたら。
 それは、希望。いや、ほんの些細なわがままだ。彼がそんなことを望んでいないと知っているのに、願ってしまうエゴ。
 ああ、それほどまでに僕は。

 あなたの側にいるなら、死もいとわない。大切なのは、あなたが僕の隣にいてくれること。ほんの少しの時間でもいい。
 だから、せめて死ぬとしてもあなたの涙が欲しいんです。
 あなたは大切な人の死にしか涙を流さないから、もしあなたが泣いてくれたら僕はあなたにとっての大切だったって証明になるでしょう?
 そうしたら僕もきっと、いつかあなたが今のように僕のことを思いだしてくれるだろうって信じられるから。

 そう、少年に告げる自分を心の中に思い描く。実現しない光景だと確信しながらも、鮮明に、鮮明に。
 だが、もし言ったとしても彼はきっと泣いてくれないだろうな。そう思っても、願わずにはいられない。
 視線の先には少年がいる。遙か昔のことを追想しながら、雨にけぶる街をぼんやり見ている、泣き方を忘れた少年が座っている。
 雨は、しばらく降りやみそうになかった。